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自分史

川口市の鈴木さんの自分史を作成しました。

2024.05.20

生い立ち

昭和10年1月11日に鈴木家の10番目の子供として川口に生まれました。父の萬之助は鋳物師で、昭和3年に水戸から川口に移りました。父は面倒見が良く、水戸から友人達も連いてきました。大勢で長屋に住んでいました。

小学校6年生で鋳物屋に小僧(見習い)に出ており、あの上野公園の西郷隆盛の像を作るのを手伝ったとかいう噂もあります。

母親のハナは水戸弘道館(※)の職員、同じく弘道館で剣道8段の腕前をもつハナの父親は、「うちの娘をどうするんだ」と日本刀を抜いて追いかけたというエピソードがあります(笑) 

当時で言うと身分違いの恋でしたが、「好き同士が1番良い」と最後には父親にも理解してもらい二人はめでたく結婚しました。

上の兄さん姉さんとは年が離れていたので、私が生まれた時はすでに結婚している人もいましたが、皆んな近くに住んでいました。年が離れていた分ずいぶんと可愛がってもらいましたね。

※弘道館とは天保12年に徳川の第9代藩主により設立された当時の総合大学のような場所。幕末から明治にかけて活躍した人を多く生み出した。

戦争の記憶

小学校1年生の時に、太平洋戦争が始まりました。あの頃は本当に物がなかったのを覚えています。裸足で学校に行くほどないないづくし。
学校でわらじを編みましたね。

印象に残っていることといえば、日本が初めて米軍の空襲を受けたのを目の当たりにしたことです。学校からの帰り道に、日本軍の飛行機がずいぶん低く飛んでいるなぁと思ったら敵機でした。ダダダダダっとものすごい音がして地面に伏せました。あれが日本本土への初めての空襲(※)だから皆わからなくて防空サイレンも鳴らなかったんだと思います。

終戦から2年後に、出兵した長男・幸一が肩と腕に重傷を負いニューギニアから帰って来ました。幸いにもその後回復しましが、人の人生を狂わせる戦争が今でも世界のどこかで起きていることを悲しく思いますね。

※ ドーリットル空襲・・・1942年に行われた日本本土に対する初めての空襲。この空襲で川口では、日本ディーゼル(今の日産ディーゼル)第二工場が爆撃され、市内で12人の死者が出た。

木型職人として、職人人生をスタート

父も兄も鋳物師なので鋳物師を目指すのは自然な流れでした。
親父は1人前の鋳物師になるには彫刻の技術が必要と考えており、葛飾の彫刻家に弟子入りする予定でした。しかし、そこが火事になってしまいその話がなくなってしまいました。

それから当時所属していた野球チームの監督から木型屋の親方を紹介されました。それが木型職人のはじまりです。最初の5年間は丁稚奉公。給料はお小遣い程度を貰い、親方の家に住み込みで働きました。

木型の仕事だけじゃなく、炊事番、親方の奥さんのお手伝い、とにかくなんでもやりました。昔の人は弟子に行って苦労した分、色んなことができる人が多かったです。

近所に象牙職人さんがいたので度々お邪魔し彫刻を教わりました。
先生は鋳物にも興味があり、私は茶釜の作り方を教えました。
彫刻の勉強が楽しく、5年も通いましたね。

勉強は嫌いでしたが、図工の成績は良く、特に絵はよく褒められました。美術の先生に弟子にならないかと言われたほど。小さい頃からそういったことが好きだったんでしょうね。夢中で技術を習得していきました。

ちょうど30才の頃、15年間親方の元で働いたあとに独立し、自分で商売を始めました。もう少し早く独立してもよかったのですが、自分が仕事を覚えてからは、若い人に教えることがたくさんありました。

最後はみんなが有給休暇が欲しいというので、私が退職金を貰わないかわりに、みんなが有給休暇がもらえるよう親方に頼みました。

家族が命を懸けた聖火台づくり

私が23才の時、アジア競技大会(昭和33年)で使う聖火台の仕事を当時の大野市長が受け、最終的にその話が父のところに来ました。父はその時68歳で、ちょうど第一線を退いた時でした。

長男の孝一は、納期が短すぎて無理だと最初は断わりましたが、図面を見た父が燃え上がり、川口で頼まれたんだから、川口でやらなきゃ職人の恥だと、聖火台の仕事を受けることになりました。

そこからは怒涛の日々でした。父の工場では、大物が作れなかったので川口内燃機の工場を借り、まずは金枠づくりから始まりました。これがとても手間のかかる作業で完成までになんと2ヶ月かかりました。

そしてその後の鉄を流し込む作業で、型の下の方のボルトが飛んでしまい隙間から鉄が流れてしまい失敗しました。全ての気力を使い果たした父は心労でそこから寝込んだきり、立てなくなってしまいました。

傷物の聖火台を納めることはできない。納期が1ヶ月後に迫った中、
1から作り直すことになりました。私も勤め先に1ヶ月の休職願いを出し、死に物狂いでやりました。

病床でも父は指示を出してましたが、失敗の後の1週間後に亡くなってしまいました。長男・幸一は先頭で作っている文吾にだけは知らせるな、と。今、親父の死を知ったら聖火台に影響がでるから、と。
他の兄たちは3男・文吾の側で作業を手伝い、私が葬式のことを全部引き受けました。

しかし、葬儀の日に、葬式に来ないで作業をしている文吾を不思議に思った内燃機の社員がなぜ葬式に来なかったか声をかけたんです。

それで父の死を知った文吾は大急ぎで自宅にかけつけましたが、ちょうど霊柩車が遠ざかっていくところでした。大声をあげて泣いた文吾でしたが、気持ちを切り替え聖火台に向き合いました。失敗したら今度は腹を切る覚悟でした。

それからは、文字通り寝食を忘れた日々でした。必死の私達を見て、川口内燃機の社員たちも手伝ってくれました。2度目の鋳込みは関係者も含め20人が見守りました。今度は無事成功しました。その晩は、文吾のために親父のお通夜をやろうとなり位牌の前でみんなで飲みました。

聖火台は、昭和39年の東京五輪でも使われることになりました。
実は新しい聖火台を作る計画があったそうなのですが、当時の担当大臣の河野一郎さん(現デジタル大臣河野太郎さんの祖父)が川口の鋳物師が命懸けで作ったものを使わないとは何事だと、その一言で川口で作った聖火台が東京五輪でも使われることになりました。

アジア競技大会では、聖火台の晴れ舞台を見ていませんが、東京オリンピックでは火が灯る瞬間を見ることができました。いまでもあの情景ははっきり覚えています。

中央に見えるのが、聖火台の木型。
前列左より鈴木文吾、鈴木幸一、遠藤知(木型職人) 
後列左より宮内初太郎、鈴木萬之助、宮内貞守

役目を終えた後の聖火台

東京オリンピックが終わってからも文吾が毎年聖火台を磨いていました。ごま油で磨くと表面が保護されて錆から守ることができ、鋳物本来の輝きを保つことができます。

それを知ったメダリストが室伏広治さんを先頭に年に一回集まって聖火台を磨いてくれるようになりました。

あの聖火台は私達家族だけじゃなく、川口で作ったと思っています。
みんなの想いが詰まっている聖火台、これからも磨き続けます。

2024年度は、室伏広治さん、スポーツ庁の方々、宮城県石巻市、東京都の子どもが参加し、聖火台を磨きました。

聖火台は2015年に石巻市に移設され、東日本大震災の被災地を巡回しました。そのご縁で石巻市でも現在設置されているレプリカを磨き、オンラインで映像をつないで同時に作業しました。

今、思うこと

昔は、今よりももっと町工場が多く赤羽の土手から川口側を見ると、煙がモクモクと立ち上っていてすぐにここから埼玉だなぁとわかったものです。
当時は汚ねぇ街だなぁと思っていましたが、今となってはそんな景色も見えなくなり、写真でもとっておけばよかったと思います。昔に比べると鋳物工場は大分減ってしまいましたね。

鋳物づくりは危険な作業もありますし、一人前になるまで時間もかかります。最近若い人で鋳物師を目指す人が減ってしまったのが心配ですが、良いものを作れば長い間大切にされ、半世紀、1世紀、またはそれ以上に人々の記憶に残る仕事です。

私は毎週水曜日と金曜日「鋳金工芸教室」で鋳物づくりを教えています。やっぱり仲間と鋳物づくりをしている時間が1番楽しいです。

自分で作った急須でお茶を飲むのも良いもんです。
ぜひ、遊びに来てください。

川口鋳金工芸研究会
場所:〒332-0001 埼玉県川口市朝日2丁目2−11
山崎鋳鉄工業所内

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